今年も9月1日がやってくる。
9月1日は“防災の日”というのが一般的だけど、最近は「9月1日問題」としてクローズアップされてますね。
9月1日問題って?
9月1日は多くの学校で夏休みが終わり新学期が始まる日。そして子供の自殺件数がグンッと跳ね上がる日として、最近は問題になってます。広く原因として言われているのは、夏休み明けに子供達の心身が不安定になり、不登校や最悪のケースとしては自殺してしまう子が増えるのだとか。そして最近では、9月1日が前倒しになる傾向が出ているともいわれています。
“9月1日問題”の対応は、学校をはじめ社会としての働きも進んできてる中で、世間一般に注目を集めたのは、やはり2015年の2学期が始まる前に、鎌倉の図書館が発信したこのツイートがニュースになったことだろう。
学校に行くのが死ぬほどつらいということになると、どうしてもフォーカスしてしまう原因としては、やっぱり“いじめ”だろう。
「いじめている君へ」「いじめていた私」
夏休み明けの新学期は、学校生活になじめない子どもにとって、つらい時期です。文部科学省の調査によると2016年度、1千人あたりの不登校人数は過去最多となり、小学校で4.7人。中学校では30.1人にのぼります。withnewsでは「いじめている君へ」「いじめていた私」。ふたつのテーマで、10代に作文投稿を募りました。被害者からは「君のことを許さない」という苦しみ、恨み。加害者からは「自分の身を守るためだった」という告白がつづられています。・・・
引用:「いじめ加害者の告白」春名風花さんと読む「周りに笑ってほしくてエスカレート」「グループの空気優先」(朝日新聞デジタル)
朝日新聞デジタルでは、このタイミング(9月1日)に合わせて、いじめた経験者といじめられた経験者のアンケートをまとめた興味深い記事が掲載されてます。
「いじめていた私」の投稿からは、
- いじめたことに罪悪感を感じつつも、仲間に嫌われて一人になるのが怖かった。
- いじめることで周りの人が笑ってくれるのが嬉しくて、どちらかというと正義感でいじめていた。(承認欲求を満たすため)
- いじめていた感覚はなく、当時は本当に罪の意識すらなかった。(意識の外で起きたこと)
しかし、投稿してきた加害者たちは、多かれ少なかれ罪悪感を抱いていたようです。「許してなんて言わないから、もう一度謝らせて」「私はひきょう者だ」などという後悔の言葉が、異口同音に出てきます。
「いじめられている君へ」の投稿からは、
- 謝ったら許してくれるなんて思わないで欲しい。いじめの傷は一生消えない。
- いじめられている子に明日は当たり前には来ない。今日生きる事で精一杯です。君がそうさせているんです。
やはり加害者に対して責める言葉がが多い中、何故か結論が似ているところに注目してしまいます。
その結論というのが、「想像して欲しい」ということ。いじめた相手の痛みを想像して欲しい。と・・・。
許せないのは傍観を決め込む大人
「傍観者も加害者だ」「見て見ぬふりはいけないこと」。という様な非難の投稿もある。
が、それを受けていじめを止めたら「自分がいじめられるかも」という不安を持つの方が多いはずだ。そんな勇気、誰だって持っているわけではない。
ただし大人に至っては別だ。
「子供より断然大きな力を持っているにも関わらず、知らないふりをした大人。(先生とかのことを指しているのか?)そんな大人は許せないし、そうなって欲しくない。」という。
傍観者はいじめの状況を俯瞰で見ているわけで、加害者には自覚なく見えてないものも、傍観者にはわかっているはずだ。いじめの解決には第三者の存在は大きい。ましてそれが大人なら尚更だ。
いじめの被害者も加害者もどちらも迷える子羊だ。その救済の解決方法は色々あるだろう。仲裁もその一つだ。そして冒頭の9月1日問題でクローズアップした鎌倉の図書館の様に“逃げ場所”という環境を作ってあげるのも方法なのだろう。色々な方面からのサポート。それが出来るのが力のある大人ではないか?
そしてそういった悩みを抱えた子供たちの親も、逃げ道を考えた上での対応が必要なのでは?