オダギリジョー主演の話題の映画「エルネスト」。副題には“もうひとりのゲバラ”と記されている。どういうこと?なんだかすごく気になったので「これは観るしかない」ということで、さっそく映画館へ・・・。
フィデル・カストロと並んでキューバ革命の英雄と称された“チェ・ゲバラ”。そのゲバラから名前を託された日系人“フレディ前村”の青年期以降を描いたのがこの映画でした。こんな日系人がいたのか?
世の中まだまだ知らないことだらけです。
物語は広島の地から・・・(あらすじ)
1959年夏(キューバ革命の約半年後)にキューバ政府使節団としてエルネスト・チェ・ゲバラは日本にいた。彼はスケジュールを変更して広島を訪れ、広島平和記念資料館や広島平和記念公園、原爆病院を訪問していた。ゲバラは同行した日本人記者に対し、原爆死没者慰霊碑(正式名:広島平和都市記念碑)の文言「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」を見て、「何故、主語がないのか?」と尋ねる。(「原爆を投下したアメリカに対して何故怒らないのか?」の意を込めた問い)
その数年後の1962年、一人の日系人がキューバに立っていた。日系ボリビア人フレディ・前村は、貧困に苦しむボリビア社会のため医者を志し、ハバナ大学の医学部を目指す。20歳の彼は、ハバナ大への入学を前に、医学の予備過程中の1963年の元旦にゲバラが学校を訪問、フレディは憧れのゲバラに個人的に「あなたの絶対的自信はどこから?」と尋ねた。ゲバラは「自信とかではなく怒っているんだ、いつも。怒りは、憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは勝てない。」とフレディに答えた。
1964年に故国ボリビアで軍事クーデターが勃発。この事態にフレディは次第にボリビアでの反政府運動に参加する意思を固めていく。そしてフレディはキューバ政府の募集する革命支援隊への参加を決意し訓練に加わる。革命支援隊に合格したフレディはゲバラから戦士名「エルネスト・メディコ(医者のエルネスト)」という呼び名を与えられる。フレディは故国ボリビアの反政府ゲリラ活動に身を投じることになった。そして・・・。
チェ・ゲバラについて
フレディ前村が憧れたチェ・ゲバラについて、ちょこっと調べてみた。
チェ・ゲバラ。本名「エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(1928年6月14日~1967年10月9日)アルゼンチン生まれの政治家、革命家、そしてキューバのゲリラ指導者。呼び名の「チェ」はアルゼンチン方言のスペイン語で「ねぇ」や「やぁ」などの意味に由来するあだ名。日本では本名から「エルネスト・ゲバラ」、「エルネスト・チェ・ゲバラ」と呼ばれることも多い。またラテンアメリカではキューバ革命以降「チェ」もしくは「エル・チェ 」といえば彼のことを指す。
ブエノスアイレス大学で医学を学んだゲバラはその後、ボリビア、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ポプリスモ政権下のグアテマラに行き着く。ゲバラはグアテマラで医師を続ける最中、女性活動家のイルダ・ガデアの思想に共鳴し、社会主義に目覚め、のめりこんで行くとともに彼女と結婚する。その後グアテマラの革命政権が崩壊し、この出来事がきっかけとなり、ゲバラは武力行使によるラテンアメリカ革命を志すようになる。そしてゲバラの暗殺命令から逃れ妻ガディアとともにメキシコへ。そしてフィデル・カストロと出会うこととなる。
カストロに共感したゲバラは、妻と娘をメキシコに残しカストロと共にキューバ革命に参加する。そして1959年1月8日カストロがハバナに入城。「キューバ革命」が達成されると、闘争中の功績と献身的な働きによりゲバラはキューバの市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任する(劇中冒頭に描かれる訪日シーンは革命の約半年後)。その後米ソ代理戦争と称されたキューバ危機を経て、キューバ(カストロ)は社会主義宣言する。通商交渉を任されたゲバラは、外遊先でソビエト連邦の外交姿勢を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し論争を巻き起こし、「ゲバラをキューバ首脳陣から外さなければ物資の援助を削減する」とキューバはソ連からの通告を受けた。これを機にゲバラはキューバの政治から退くこととなる。
ゲバラは動乱後のコンゴに渡り、混乱が続く現地で革命の指導に携わるが、あまり成果は上げられずに秘密裏にキューバへ再び帰国。
次にゲバラはボリビアの内戦に反政府革命軍として参加。結局ゲバラはこのボリビアの内戦下で銃殺され生涯を終える。彼の死の直前の逸話として、銃撃を躊躇する兵士に向けて「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」と言い放った。
フレディ前村のメンタル
フレディ前村(本名:フレディ・マエムラ・ウルタード(Freddy Maemura Hurtado)1941年10月生まれ。日系ボリビア人の2世(父親が鹿児島出身の日本人、母親がボリビア人)。キューバに医学留学の最中に、キューバ危機を経験。そこでフィデル・カストロやチェ・ゲバラと会う。その後ボリビアで軍事クーデターが勃発、フレディはゲバラの部隊に入りボリビアへ。ボリビアで銃殺されて25歳の生涯を終える。
フレディと革命
フレディはボリビアからキューバに来る以前に、ボリビアの共産党青年組織の一員としての活動経験があり、投獄も経験している。キューバでの政治活動的な動きの礎はボリビア時代にすでに培っていたと言えますね。とはいえ、キューバでは医者を志す留学生なわけだから、ある出来事が祖国で起きるまでは、表立って活動していたわけではなく、そのエネルギーは学生としてのリーダーシップに活かされていたと思われます。劇中でもそういうシーンが描かれていて、他の友人学生からも信頼を寄せていたようだ。学友のルイサからも・・・。
留学中(ハバナ大学入学以前のヒロン浜勝利医学校)にキューバ革命を経験したフレディはゲバラと会う機会を得る。そこで交わしたゲバラとの会話(あらすじ参照)は、フレディの心に深く刻み込まれることになる。
その後、母国ボリビアで起きた軍事クーデターを知ったフレディは、医師の夢と母国の危機の狭間での葛藤を経て、ゲバラ率いる反乱軍に志願し数ヶ月の訓練を経たあと入隊を果たす。フレディの中に眠っていた自身の正義を貫く革命の意思が目を覚ましたのだろう。
フレディの安らぎ
フレディはルイサという女性(学友)に密かに思いを寄せていた。ルイサはフレディの友人と付き合っていて妊娠させられてしまうが、友人はその責任に耐えられずルイサを捨ててしまう。ルイサは未婚の母となってしまうのだが、それを献身的にバックアップしたのがフレディだった。フレディは時間が許す限りルイサの所へ行き話し相手になった。傍から見ると面倒そうなことだが、彼女に対する愛情もあり、彼にとっての安らぎにもなってたんじゃないかな?
そしてルイサや娘にとっても、フレディの存在が欠かすことの出来ない状況になった頃、ボリビアで軍事クーデターが起きる。フレディにとっても安らぎのひと時であったに違いない時間と空間を投げ捨て、彼はルイサの前から去りボリビアへ向かう。フレディがボリビアへたった後、ルイサの娘が「フレディはいつ来るの?」的なことをルイサに尋ねるシーンは、ちょっと涙しそうになったなぁ・・・。
フレディとゲバラ
フレディはゲバラから“エルネスト・メディコ”という戦士ネームを授かった。何故ゲバラは、一青年であるフレディに“エルネスト”という自分のファーストネームを与えたのか?(あえて託すとは言いません)
本編を見ている限り、フレディとゲバラにさほど深い接点があったようには描かれていない。なのに何故?って思ってしまうのだけど、美談で片づけるならば・・・「彼(フレディ)の人柄や誠実さ正直さなどをゲバラ自身に投影して・・・」などで片づけてもいいのだけど、ちょっと釈然としないところもある。ただ「ゲバラ日記」(ボリビアにおいてゲリラ活動をしていた時にゲバラがつけていた日記)にて、“エル・メディコ”とか“エルネスト・メディコ”という名前で登場しているらしいので、全く目にとめてなかったワケではなさそうですね。またゲバラは医師でもあったので、医学生のフレディに興味を抱いていたのかも?(すべて推測の域を出ません)
ただフレディの立場からしてみれば、“エルネスト”という名前を授かったということに特別な思い入れはあったのかもしれませんね。
フレディ前村とオダギリジョー
フレディ前村を演じる主演のオダギリジョーは、劇中全編にてセリフはスペイン語だ。演技はもちろんのこと言葉の準備に関しても想像を絶する苦労があったと察することが出来るが、インタビューにおいて彼はその苦労を強調することはなく、「台本のスペイン語訳ができた時から、なるべく時間を多くとるようにはしていました。」くらいに留めている。
またオダギリが演じるフレディはとても自然な感じがして、観ている僕らの中に「スーッ」と入ってくる。「フレディを演じるにあたって、何が重要なポイントなのか、キーワードは何なのか、逃さないように注意しながら演じたつもりです。」とオダギリが答えているように、自分なりにフレディを昇華して演じた結果なのかも。
オダギリにとって「エルネスト」は役者人生における記念碑的作品になったようで「今の日本映画には珍しいタイプの作品。このような企画に手を挙げる人は少ないだろうし、リスクを負う挑戦的な映画だと思って参加しました。10年後を考えた時、このような作品を製作する余裕があるかどうかは『エルネスト』が出す答えによると思う。観客の皆さんの力をお借りすることが『エルネスト』のような作品が死なない唯一の道だと思うので、ぜひ宣伝をしていただきたいです」と熱弁した。
確かに日本の映画としては異質だけど素晴らしい映画でした。海外での映画祭や賞、そして年明けの日本アカデミー賞で、この作品は認められるのか?楽しみでもあります。